メンヘラ備忘録

逆コナンのメンヘラが日々感じたことを綴っていきます。

メンタル危機

こんにちは。なのはなです。

 

就職活動が近づくにつれてメンタルが死んできました。

学校をサボり、バイトを仮病で休む日々です。

あれブログって敬語調だったっけ?まあいいや進めようという具合にはどーでもよくなってきています。

 

この先生きていける気がしません。

私と他の人との間には大きな隔たりがあります。

私はいつまでたっても子どものままで、周りは成長して大人になっていって。いつもいつも私と周りの差を痛感します。

私は知能が足りないままで、他の人の話に追いつけないまま、愛想笑いして心はボロボロです。

 

私が行動言動は全て間違っているか、足りないもので、他の人はとても頭がいいことを言っている。この認識がどうしても拭えなくて、なんにも言えないできない人間が一丁あがりです。

「こいつ何言ってんだ?」という視線で死にたくなります。

 

なにもしたくなくて、限界まで逃げて、やっと立ち向かって結果はボロボロ。心の出血が止まらないままです。

嘘です。本当はなんにもしてません。

 

ただただ怖いんです。漠然と、本能が怖い怖いと叫ぶんです。

なにがそんなに怖いのか、分からないけど、怖くて怖くて仕方がないんです。

許されることなら、なんにもしたくありません。がんばってないけど休みたいです。

 

神さま、どうか、救いをください。

 

 

 

幼稚園からやり直したい

こんばんは。メンヘラです。

書いてる途中にブラウザが勝手に閉じて、本文がお釈迦になるところだった‥‥

 

今日は激しく情緒不安定。

気合を入れてゼミの資料を予習するも、一言も発言できなかったり、一緒に帰った同級生に頓珍漢な受け答えをしたり、大学の窓口の相談時間を間違えていたりと、とちってはいたが、これだけではない。

 

少々脱線するが、私は非常に立場や能力の上下を気にする性質だ。頭のいい人や、偉い人にはがちがちに緊張する。反対に頭が悪そうな人には勝手な親近感を覚える。後輩には気安く接しやすい。

一見私にとって苦手なのはいわゆる「上」の人なのだが、「下」だと格付けした人が、実は自分よりデキる人―――「上」の人だった場合は、さらに苦手になってしまう。後輩がデキる人だったら特に。うかつに話しかけられなくなる。(そもそも話しかけることは少ないが‥‥)

自分より「下」の存在をつくることにより、自分がダメなやつでも大丈夫だと、現状を肯定したいのだ。なんと悲しい次元なんだろうか。なんと低レベルなんだろう。こんな自分なんて大嫌いだ。昔から。

ゼミの後輩がめきめき知識をつけて発言数も増えてきた。格付け癖のある私からすると、たまったものではない。おいおいキミもできない側の人間じゃなかったのか!??とめちゃくちゃ焦る。活動している最中に焦る。

 焦って内容に集中できない。後輩よりダメな先輩なんてそんなの、存在していいのか。もっと発言しないと。有意義な問題点を発見しないとダメだ……こんな考えにとらわれると、純粋な内容に集中できなくなってしまう。

周りが私よりできて、私ができないやつだって、ずっと前から分かっていて、その差に、劣等感が終わらない。

彼らは眼中にない。純粋に、学問を楽しんでいる。真剣に取り組んでいる。

いいなあ。私も真剣に何かに打ち込みたい。何かが長続きしたことはなくて、だからこそ自信がなくて、踏み出すには劣等感ととげとげの自意識が邪魔だ。いっつも邪魔だ。

‥‥‥とまあ、ゼミの後輩に焦りはあるが、彼が自信を持って発言しているのが嬉しい気持ちもある。置いていかないで欲しい気持ちと、後輩の成長が嬉しい気持ちはどっちも本当だ。

 

さて、本題はここからだ。

先程、上下を気にしていると書いた。ゼミには気遣いが素晴らしい素敵な男性の先輩がいる。人として尊敬しているし、勝手な親近感もあるが、私は立場も能力も上のその方と接するとがちがちに緊張してしまう。何か振ってくださっても、「はい」とか「そうですね」で終了だ。

その先輩は今日風邪を引いていて、声がからからだった。去り際にどうしても一言言いたくて、「お大事になさってください」と声をかけた。

先輩は、他の先輩方と談笑されていたのだが、ああ、私はそのときの顔が忘れられない。とても戸惑っていらっしゃった。困っていらっしゃった。雑談はやんで空気はしんと静まり返った一瞬。

声をかけるべきではなかったと察した。

もちろん、私の声が小さくて聞こえなかったとか、お話に夢中だったとか色々考えられる。でも、あの表情はきっと、

この数年間私は何をしていたんだろう。私の気持ちは全然伝わっていないんじゃないか、私はただお大事にと伝えたかっただけなのに、どうしてそれだけで戸惑われるのだろう。そこまで希薄な関係だったのが情けなくて、悔しくて、悔しかった。自分の気持ちを伝えるのをサボったからだ。

私は人と仲良くできない。仲良くしたい人と仲良くできない人生だと、悟った。

誰かを困らせたくなんてないのに!どうしてみんな困らせてしまうんだろう。

 

 

ああ神さま、どうか。私を幼稚園からやり直させてください。そこで人との距離感の正解を学んで、言ってもいい言葉と駄目な言葉とか、私を受け入れてくれる人間関係を経験させてください。

人に物を受け渡すとき、どう振舞えば分からないし、3人以上の会話には頭がついていかないし、自分に立てた約束も破ってばっか、人並みのお洒落も知らないで、自意識ばっかりが成長してしまった。

もう二十過ぎじゃ遅いよ。こんなエラーは修復不可能だよ。失敗が許される年じゃなくなってしまった。

私なんかどこにも行けない。

クソ鬱週間を抜けて

こんばんは。メンヘラです。手首切ったりとかはしないよ。痛いのは嫌い。

 

今週は私にとって地獄だった。

躁鬱病の鬱か、はてさてADHD気分障害の一環か……ともかくやる気や生きる気力が著しく低下していた。スマホを片手に布団と友好を深めたり、授業も体調不良を理由にサボった。

私は体調不良のほかにメンタル不良で講義を自主休講する。このメンタル不良は月一ぐらいのペースで起こり、そのたびに休んでいい回数を計算に入れて、「よしまだ休めるぞ」みたいな感覚で休むのだ。

とはいえ、休む時は後先考えず休むことが多い。前日に友達も休んでいたからと。つられて休んでしまう、いや、口実に休んでしまうことがある。

なにかと理由を付けて正当化させてしまうのは非常によくない。

 

ところが、休めば気が楽になるかといえば、結局は家でネットサーフィンするか録画したアニメを消費するかで時間を浪費して、自己嫌悪に陥るのは見え見えだ。挙句の果てには、それらの行為に飽きて寝てしまう。

 

経験上、休みたいときには、学校に行った方が楽だということは分かっている。とても気が変わりやすくて流されやすい性分が故に、「嫌だ嫌だと思ったけど、やってみたら案外楽しかった」というような経験は身に覚えがある。

自信をつけるのにも、嫌な思いをぐっとコラえて、「嫌だったけど学校に行けた」成功体験を積む方がよっぽど有意義だ。

 

それなのに、逃げてしまうのは鬱期のメンタル不調だけではなく、もともと「嫌なこと」ではなく、「嫌なことに立ち向かうこと」を過剰に恐れている、ストレスに感じているのだろう。とんだ甘ちゃんだ。

自分一人だったら、いくらでも逃げればいいし、逃げてきた。ところが今週はそうもいかなかった。人と会う約束と、ゼミの中で発表当番がまわってきたのだ。

さすがに逃げの小太郎との異名を持つ私でも、他人が絡むことからはよほどのことがないと逃げられない。

他人に迷惑をかけることは何よりも怖い。失望した、苛立った表情がトラウマだ。親にもミミタコで教えられてきた。

 

クソ鬱週間は、抱えている予定に関係なくやってくる。「ハイハイクソ鬱週間来ますよー!」と事前にアナウンスを入れてくれ。切に。覚悟しておくから。

 

そんなクソ鬱週間の中での気づきを書き出していく。

  • 差し入れを渡すときは、どういう意図なのかはっきりさせる。
  • 私は仲良くなりたい、尊敬している人の前だと、上手く話せない。
  • 二人以上の知り合いの中に入るのが苦手。(あまり親しくない)
  • 興味の幅が狭い。
  • 自分で受け持つコーナーは自分で進行する
  • 全て自分が反応するつもりで会話を聞く
  • 会話は言葉の厳密さよりも流れで進んでいく
  • 自分が話しかけた時に、相手が無反応なのが怖い
  • 私の自分ルールは厳しいのかもしれない

 

当たり前やろ!ということもあるだろうが、視覚化すると忘れないでいいね。

 

私は圧倒的に言葉が足りないので、何か人に行動を起こすときに、一言添えることを忘れないようにしたい。(差し入れを渡すときに、個人宛なのか団体向けなのか等)

 

相手が他の誰かと話しているときは、無視(スルー)されるのが怖くて、近くにいても話しかけないことが多い。たとえ友達であっても。このへんの無視を恐れる心理の解明が、円滑な人間関係の構築に一役買うのではないかなあ…次回に期待。

 

今週の収穫は、会話での笑いの取り方がなんとなく分かったこと、クソ鬱週間ながら役割を果たしたこと。

 

その場の空気、全員が共有しているものに、遠回しに切り込むと笑いが起きる。なんともざっくりだが、私が実際に体験して得た実感はこんなところだ。

笑いを取るというものはいい。お笑い芸人の方が、笑いを取るのに執着する気持ちもなんとなく分かる。その場のみんなが自分の発言に笑ったのは気持ちいい。

率直に「ウケたーーーーー!!」と内心思った。

話せば沈黙が自動的についてくるメンヘラの世界がまばゆくなった瞬間だった。

 

クソ鬱週間でPCを開くことも怠かった、ごろごろ布団とお友達になりながら、ゼミの前日の夜に作り上げ、当日に学校に行けたのはとても偉い‥‥‥と思う。クソ鬱週間でも、やることはやれると証明できた。

 

来週も緩くがんばろう。

言葉が欲しい

私は脳の回転速度が人より圧倒的に遅い。こうしてブログの文章を書くのだって、とても時間がかかってしまう。文章ならまだいい。じっくり考えて推敲することができる。

ところが会話ではじっくり考えているうちに話題がどんどん変わってしまう。話されている話題に、瞬時に反応する能力が必要となる。

ゼミで相手の質問に答えられなかったとき、友人の会話中に詰まってしまったとき、帰り道で悶々と「あのときはこうやって答えるべきだった」と考える。適切な答えが見つかったとしても、会話は既に終了してしまって後の祭りではあるが。

私は瞬時に言葉をひねり出すことが苦手だ。おおまかに苦手な要因は二つあり、

①言いたいことが浮かばないとき、②言いたいことはあるが言語化できないときに分けられる。①は別の機会に考察するとして、今回は②を考えていきたい。個人的には②をいちばんなんとかしたい。言いたいことがあるのに、伝えられないのはとても苦しい。

 

おそらく考えていること(概念)を言語化する思考回路が脳内で上手く機能していないのだと思う。

例えとして適切かは分からないが、「〇」(概念)は「丸」(言葉)で表される。私は「〇」(概念)=「丸」を結びつける思考回路が弱い。「〇」の形のイメージや、正解ならつけられるものとか、理解はしている(つもり)が、肝心の「丸」という言葉にたどり着かない。

下はイメージ図だ。斜線は「丸」までたどり着く思考回路を妨害している何かを表しているが、お分かりいただけるだろうか。(オール私の想像、妄想なので真に受けないように!!)

 

1.通常の人 〇(概念)→丸(言葉)

2.私    〇(概念)→//→///////→//丸(言葉)

 

易々と、もしくは斜線をなんとか潜り抜けて、「丸」と言語化することができる。声に出したり、スマホで打ったり。

言葉にたどり着くまでに時間がかかった場合はなかなか大変だ。ジェスチャーで表したり、「満月の形」のように遠回しに言ったり。話し手は必死のあまり、支離滅裂なことを並べることもあり、聞き手は混乱してしまうこともある。私は支離滅裂な話し手で申し訳なく思っている。私も混乱、相手も混乱、なんという地獄。

ではどうすればいいのか。

簡単に言ってしまえば、概念と言葉を繋ぐ思考回路を繋げてしまえばいい。途切れているなら繋げてしまえばいいのだ。

どうやって、というと方法を模索中なのだが、二つ考えている方法がある。

 

①音読

②ひとりごとでひたすらしゃべる

 

①は時にサボりながら、半年前から続けている。ググると音読すると頭の回転が速くなると多くのサイトで言われている。私はここ2週間ほど音読していない。音読していた時期よりも頭の回転が落ちた‥‥気がする。継続してないと効果は出ない感はある。継続は力なり。継続できる人になりたい。

②はめちゃくちゃ効果がある。自室にいるときに、部屋にある物の名前や、連想することを呟いていたら、数ケイデンス頭の回転が上がった。

 

‥‥‥気付いてしまいました。

私はもっとしゃべればいいんだ。無口に過ごしてきて、発話能力が錆びついているのか。

とはいえ、しゃべれる知り合いが少ない身の上故に、自室にこもりながらぶつぶつ呟くメンヘラになります。メンヘラ度が上がった!やったね。(嬉しくない)

 

本当は「伝えたいことがあるのに、相手に上手く伝えられないのは苦しいーしんどい」みたいなことを書こうとしたのですが、次第に路線が変わっていた。

 

感じていることをそのまま相手に見せられれば、言葉にする苦しみはないのにな、なんて思う。スラスラ自分の言葉で話せる人が羨ましくて、どうしてあんなに話せるのか羨ましかった。

 

上手く心の中を話せる言葉が欲しい、見つけたいと、切に思う。「あなたのこんなところが好きだよ」とか嫌なものを嫌だと上手く伝えられるようになりたい。

話していれば、人と接していれば言えるようになるのかな。

 

‥‥‥これまでコミュニケーションをサボってきた弊害が来ているな。

まあ、ぼちぼちやってみよう。